昭和50年前後の事です。
東京近郊の県ですが、うちの祖父母が住んでいた家は古い農家の家でした。
農業は本職ではなく、借りて住んでいました。
敷地を円形に包むように1メートル程の高さの土が盛られていて、ぐるっと樹木が植えられています。
敷地内には母屋、蔵、納屋、三畝ほどの畑もありましたから、土手の直径が60メートルほどではないかと思います。
土手の一箇所だけ5メートルほど切り崩されていて、そこが出口になります。
出口から母屋までは30メートルほどの前庭になっており、右手に大きな蔵が立っていて、そこに白い雑種の犬が飼われておりました。
これがやたらと吼える犬で、蛇を見ては吼え、大きな蟷螂を見ては泡を吹き逃げ出す、という情けないところが魅力で可愛がられていました。
ある夏の暑い日でした。
裏庭から母屋の右手に出て来た時に、何と言いますか…辺りが一変したのです。
母屋の右手にはちょっとした竹垣が拵えてあって、その竹垣を超えた瞬間でした。
何か変な所へ出て来た感覚がありました。
景色は同じなのですが、陽の光の強さが変わったというか、いきなりカッと照りつけ陽炎が立ち上るような、目を開けていられないような、盛夏のど真ん中に来たような感じでした。
ワーンという感じで響いていた蝉の声も、急にじーわじーわとひどく小さなものになったのです。
不思議な感覚のまま正面の出口(土手の無い部分)の方に歩きかけて、更に違和感が強まりました。
出口には横に引くタイプの鉄の柵のような門があったはずなのですが、それがありません。
それどころか、戸板の門が観音開きの様に内側に開いていたのです。
「あれ?」
『いつの間にあんな木の門にしたんだろう?』と思いながら正面に歩きかけて、そこでそれを見たのです。
私はとても大きいものがゆったりと歩いて行くのを見て、慌てて歩みを止めしゃがみました。
見た途端、『見つかってはいけない』、そう思いました。
それは、尻尾を左右に振りながら歩く馬でした。
辺りで飼っている家は無かったと思います。馬をその距離で見たのも初めてでした。
それに男、和服…袴を履いた男が、菅笠のようなものを被って乗っていました。
もちろん、当時の私には語彙がありませんから、小学校の先生の持っている黒い出席簿を広げて頭に乗せているように見えました。
まず子供心に驚愕したのが、馬の大きさです。土手の高さと比して大きさが判りました。
10年も後に乗馬をした際、馬の背を見てそれが普通なのだと知りましたが…。
その時は化け物のように大きく思えたのです。
私は彼らが振り返っても見つからないように、しゃがみながら右に移動して、馬の背中、尻尾、またがる小柄な男の背中を見送っていました。
辺りは照りつける陽の強さで色を失って、半ばセピア色でした。
そこで、犬の事を思い出しました。
「あんなのがいたら大慌てで吠え付くはずなのに」
犬を探して目をやると、何と犬小屋に入ってこちらを見ている犬と目が合ったのです。
怯えた目で震えて私を見てました。
馬の姿が見えなくなり、犬の名を呼ぼうと立ち上がった刹那、わっ、という感じで色と音が戻ってきました。
目には木々の緑色が映え、耳にはワーンとした蝉時雨が聞こえてきました。
私は走って門の所まで行きましたが、公道まで50メートルは周囲に高い木もない一本道の私道には、馬どころか動くものの姿ひとつありませんでした。
門は鉄の門に戻っていました。
普段、開放したままにする事のない門でしたが、開けられた状態になっていました。
ごとりと音がして、犬がのっそりと小屋から出て近寄って来ました。
怯えた気まずそうな上目遣いで私を見ていました。
当時、一生懸命大人に説明しようとしたのですが、結局「馬がいた」としか言えませんでした。