ある病院に入院中のAさんが、夜中にトイレに起きたときのこと。
トイレから出て自分の病室へ戻ろうと廊下を歩いていると、廊下のずっと先からガラガラと物凄い音が近付いてくる。
「なんだろう」
と目を凝らしてみると、大きなワゴンに薬の入った瓶やピンセットをのせて押しながら、看護婦が走ってくるところだった。
ところがその様子が普通ではないのだ。
静まりかえった病院内を、明かりもつけずに不自然なほどの騒音をたてながら、ものすごい形相でこちらに近付いてくる看護婦を見ているうちに、Aさんはとてつもない恐怖に襲われた。
…あれは生きている人間じゃないぞ。
とにかくやりすごせればいいと思い、引き返して今出てきたばかりのトイレに駆け込んだ。
それでも不安だったため、入口から4番目、一番奥の個室にこもって鍵をかけ、看護婦が通り過ぎるのを待つことにしたのだった。
遠くに聞こえていたガラガラというワゴンの音がいよいよ大きくなり、トイレの前に差し掛かかった。
だが、ワゴンはそのまま通り過ぎずに、こともあろうかトイレの前でピタリと止まった。
Aさんは息を殺してワゴンが行き過ぎるのを待ったが、次の瞬間、Aさんの漠然とした恐怖が本物になってしまう。
看護婦がトイレの入口のドアをあけて、入ってきたのだ。
コツ、コツ。
看護婦の靴音だけがトイレの中に大きく響く。
ギイ…
入口から一番最初の個室のドアが開け放たれた。
コツ、コツ。
2番目のドアが開けられる。
3番目のドア、次は…。
とうとう最後の4番目のドアに、看護婦の手がかかった。
Aさんの恐怖は絶頂に達してる。
鍵がかかっていることを知ると、看護婦は狂ったようにドアノブをがちゃがちゃ鳴らし始めた。
鍵を壊して戸を開けるほどの勢いに、Aさんは目をつぶったまま、歯を食いしばってドアノブをしっかり握って抵抗した。
どれくらいそんな時間が続いただろう。
ふとドアの外が静かになった。
「ああ、俺は勝ったんだ」
大きな安堵感が込み上げて緊張の糸が切れたせいか、Aさんはそのまま気を失うように眠り込んでしまったのだった。
次の日の朝早く。
うっすらと朝日が差し込んで、明るくなってきたトイレの個室でAさんは目を覚ました。
「ああ、ゆうべはたいへんな目に逢ったんだった。」
昨夜の出来事を夢のように思い出しながらドアを開けようとしたが、おかしなことにドアはびくとも動かない。
鍵も外したし、何かがひっかかっているのかな、と上を見上げたAさんは、再度気を失った。
Aさんが目にしたものは、個室の上の隙間に指をかけ、目だけで中を覗き込んでいる、ゆうべの看護婦の姿だった。
看護婦は諦めて行ってしまったのではなく、鍵を開けることができないと分かってから、一晩中Aさんを見張っていたのだ。
Aさんはその後すっかり朝になってから、同じ階の他の患者さんに助けられたという。