T県を流れるK川の周辺は、毎年夏になると、バーベキューやキャンプを楽しむ家族連れや若者たちで、まるで大きな街中にいるような大にぎわいとなる。
A大学のあるアウトドア系サークルも、夏のキャンプ合宿にこの地を選び、2日前から生活をしていた。
食事担当のAさんは、水を汲みにいったときに、隣のバンガローにいるグループからある噂を聞いた。
2、3年前から、ときどき深夜になると、誰もいないはずの川に一艘のカヌーが音も無く漕ぎ出すというのだ。
しかも、そのカヌーには誰も乗っていないという・・・。
今回の合宿メニューには、カヌーでの川下りも含まれている。
この手の話は夜の宴会の恰好のネタだった。
Aさんも、さっそくその日の夜の宴会のときに、みんなにこの話をした。
「その誰も乗ってないカヌーは、音もたてずに下流に向かってのろのろと進んでいくらしいよ・・・。」
「なんだか不気味だなあ。」
みんなビールを飲んだためか、顔がやや赤らんでいる。
昼間の暑さがまだ残るなか、川の水が岩にあたってはねる音や、どこかで花火を楽しんでいるざわめきが聞こえてくる。
明日は、いよいよみんなで交替しながらカヌーで川を下る日だ。
そして次の日。
川下りは予定通り始まった。
Aさんはカヌーから降り、次の順番の人間にヘルメットやライフジャケットを手渡した。
(なかなかいいコースに当たったな。けっこうスリリングな早瀬もあったし、ま、10回くらいは沈するぐらいのところじゃないと楽しめないよな。)
濡れたTシャツを脱ぎ、仲間が渡してくれたタオルで体をふきながらAさんは思った。
「沈」というのは、カヌーがぐるりと上下逆さになってしまうことである。
カヌーの場合、ボート型のものと違い、転覆しても沈んでしまうことはない。
仮にこういう状態になってしまった場合は、こぎ手は、水中で船体から抜け出す。
上級者だとパドルをうまく使い、抜け出さずにカヌーを元の姿勢に戻すこともできる。
さらに下流に下っていく仲間を見送っていると、ふと川岸でキャンプ地の管理人の人が何かにお花を供えているのが見えた。
なにか、それが妙に気になって、Aさんは声をかけた。
「あの、昨日カヌーの変な話を聞いたんですけど・・・噂って本当なんですか?」
「噂って・・・?ああ、そうか。いや、夜のカヌーの話ならただの噂でしょう。私は見たこともありません。」
「でも、何かあってのことじゃ・・・それに、その花は・・・?」
Aさんの言葉に、まだ若そうな管理人は今供えた花に目をやると、ついで下流のほうを見つめるように顔をあげ、つらそうな表情でポツリと言った。
「いや、これは私の友人のためのものなんです。」
そして、5年前の事故の話をはじめたのだった。
当時、K川のその一帯は、夏休みに入るまでの期間は、禁猟区で釣り人もおらず、カヌーの練習場専門となっていた。
そのときも東京のある大学が合宿で来ていた。
それは雨が多い夏で、1週間も降り続いた雨がちょうどあがった日のことである。
雨で思うような練習ができないうさを晴らすように、大学の部員たちは練習に没頭していた。
のんびりとした川下りではなく、あえて荒い瀬を含む1kmほどのコースを選んでいた。
スタート地点は、本流がU字型にゆったりと蛇行する。
そのあいだを直線的につなぐ、およそ50mほどの白く泡立つ急流があった。
かなりの瀬であったのだが、部員たちは巧みなパドルさばきで次々とそこを下っていく。
最後に、また一艘のカヌーが流れに漕ぎ出した。
かなりのスピードで、岩をよけ、滝のように落ち込む流れもうまくいなしながら、進んでいく。
と、その時、「キャーッ!」という数人の女性の叫び声があがった。
そのカヌーがひっくり返ったのだ。
しかし、それは悲鳴ではなく、笑い声もまじった余裕のある声だった。
なぜかというと、それはベテランの地元インストラクターOさんのカヌーだったからだ。
Oさんのキャリアからいって、こうした状況など珍しくもないし、安全のための装備もおこたりない。
いりくんだ大岩と木々で瀬の上から彼の姿は見えなかったが、すぐに脱出して川沿いにのんびりと下りてくるはずだった。
そのため、むしろOさんのことよりも、流れていくカヌーとパドルの方が気になった。
操縦者を失ったカヌーは、ときどき岩にぶち当たって方向を変えながら流されていく。
さらに下流の上陸ポイントには、先行した部員たちがいるはずだが、そこまでの間で何かに引っかかってしまうと、探し出して回収するのが面倒だ。
車でサポートする側にまわっていた、もう一人のインストラクターであるSさんは、そう判断すると、残ったマネージャーたちを車に乗せ、上陸ポイントに先回りすることにした。
10分後、Sさんが部員たちを集めて事情を話していたちょうどその時、転覆したままのカヌーが、対岸の水がグルグルと淀んでいるところで、「ゴッ!」という鈍い音と共に突然止まった。
「もう、本当にOさんも迷惑かけてくれるよな。」
「まあまあ、Oだって、おまえらの手前、今頃バツの悪い思いをしてるよ。」
それぞれ軽口をたたきながら、Sさんと3人の部員がカヌーをつかまえようと水の中へ入っていった。
川の水はひんやりと冷たく、カヌーの側まできた4人は、転覆しているカヌーをひっくり返して起こそうと手をかけた。
「あれ、やけに重いなあ。」
いつもなら簡単にひっくり返るはずのカヌーが、妙に重かった。
そこで号令をかけ、一気に全員でひっくり返すことにした。
「いいか、いくぞ・・・いっせーの!!!」
4人は、反動をつけて思い切りカヌーをひっくり返した。
「・・・うわあああああああ!!!!」
そこには――人間の、胴の、断面があった。上半身は、ない。
断面といっても、強引に引きちぎられたような無残なもので、下半身だけが、カヌーの小さな操縦席におさまっている。
残された胴には、わずかに臓器がへばりついていたが、水で洗われたせいか、そのほとんどを失い、血の一滴もない。
チャプン、チャプン、と、カヌーごと揺れながら、それは水に濡れ、夏の陽に光っていた。
器のようにくぼんだその肌色の腹腔の内側に、血の気のない血管が網の目のように走っているのが見てとれ、かえってそれが、非現実的な人体模型の内部のようだった。
カヌーが転覆した瞬間、水中の岩に頭が激突し、Oさんは意識を失い、そのまま急流に押し流され、次々と岩が・・・頭をもがれ、腕をもがれ、肩を削られ、胴をえぐりとられて・・・しまったのだろうか・・・。
誰もが、その受け入れがたい現実に呆然としていると、まっすぐに起こされたカヌーが、再び水に乗って流れ出した。
しかし、もう誰も動く事ができなかった。
放心状態で、ただ流れていく無人の、いや、胴体の下半身だけが乗っているカヌーを見つめていた。
いつしか、カヌーは視界のはるか下流に消えていった。
「その後、あらためて警察による捜索がなされたんだが、結局、そのカヌーも彼の下半身も、ついに見つからなかったんだよ・・・。」
そこまで語ると、そのSという管理人は、立ちつくすAさんに背を向け、上流の方へゆっくりと歩み去って行った。