これは僕が前に住んでいたアパートで起こった話です。
当時の僕はアルバイトをこなしながら学業も疎かには出来ずなんとか節約をしながら生活をしていたのですが、家賃を払うことが出来ずにその前に住んでいたアパートを追い出され、他のアパートを探しながら友人の家を転々とし、途方にくれていました。
なんとか田舎から出てきて東京の大学に通っていた僕にはいまさら田舎に戻る事もできず、同級生や先輩のお世話になる毎日。
それでも毎日、不動産をめぐってはいい物件を探していたんです。
…最初は信じられませんでした。
とても安い家賃のアパート、見つかったんです。
安いからには何かある、とは思いましたが贅沢は言ってられません。
そこなら僕のアルバイトでもなんとか借りることが出来ますし、友人達にも迷惑はもうかけたくなかったんです。
二つ返事で僕はアパートの管理人さんと契約し、数日後にはアパート暮らしが再開されました。
今となっては理由も分かる気がしますが、そのアパートは安い家賃にしては内部も外見もしっかりしており、風呂まで完備されていました。
ただ、初日に管理人さんがおかしな事を僕に言ったのだけが気にかかりました。
「手足の小指の爪、黒く塗ること、それだけは忘れないようにして、わかったね」
うつむき加減で僕の顔をまったく見ずに、管理人さんはそう呟いたんです。
見ると管理人さんの手の小指も黒く塗られているのです。
管理人さんの後ろをすり抜けていった高校生風の青年の小指さえ、黒く。
何かのまじないだろうか、それとも何かの宗教だろうか。
僕は恐ろしくなって、その日は言葉に従いサインペンで手足の小指を黒く塗りつぶしたんです。
ひんやりと冷たいインクが爪を通り越し肌に伝わります。
一瞬、僕は何をしているんだろうと思いました。
何かむなしく、けれど塗ってしまったものはしかたありません。
僕はそのまま、一日目の夜を超えたのでした。
二日目、大学から帰ってきた僕はアパートの前で別の人とすれ違いました。
青い服を来た女性で両手に痛々しい包帯を巻つけて、僕の横をすり抜けて、二つ向こうの部屋に消えていきました。
「黒く塗らないからだ…」
湿った声が隣の部屋から聞こえ僕がそちらに顔を向けるとドアの隙間からぎょろりと血走った目が僕を捕らえ、ばたんとドアが閉じられました。
僕は背筋に冷たいものを感じ、焦るように自室へと戻りました。
やはりこのアパートは普通じゃない、そう思ったんです。
安い理由、爪を黒く塗らせる理由。
言い知れない恐怖からその日も僕は黒く爪を塗って夜を超えました。
三日目、その日は休日で湿った雨がしとしと降っていました。
窓から外を見ると、真っ黒な雲が広がっており出かけられる状態ではないと思い、僕は今日一日を自習でもして過ごそうと思ったときでした。
外にふわりと青いものが見えたんです。昨日の女性でした。
見ると両足にも包帯を巻つけ、手荷物を包帯のまきついた両手で抱きかかえ逃げるようにアパートから離れていきます。
ああ、もう戻ってこないのだな、と僕はそう感じました。
見れば雨はしとしとから本降りへと変わり、風景にまぎれていた音も次第と雨の音でかき消されてしまい、憂鬱な気分が広がります。
それがいけなかったのか、僕は眠気に襲われていつのまにか眠りこけてしまったのです。
爪を黒く塗ることが出来ずに…。
どれぐらい眠っていたのでしょうか。
僕は真っ暗な中で目を覚ましました。
「………ぁ………?」
ゾッとするように暗さに夜中まで眠ってしまったのか。
僕は真っ暗な中に垂れ下がっているはずの電灯のコードを探そうと手を持ち上げます…が、僕の腕は凍りついたように微動だにしません。
寝ぼけているのかもと思い、首や足も動かそうとしますが、やはり動かないのです。
金縛り、まさか。僕はもがくように体を動かそうとしますが、やはり…。
はっきりしなかった頭にも恐怖がしだいに伝わっていき、汗が額から唇へと流れ、しょっぱい汗が口の中にまで流れ込みます。
思えば涙も流れていたのかもしれません。
それほどの恐怖だったのです。
金縛りがなければ僕の体はガタガタと震えていたことでしょう。
ガタンっ
押し入れの方から不気味な音が聞こえました。
暗闇の中、押し入れの扉もまったく見えません、けれどガタガタと押し入れの扉が何かの力によって揺さぶられている音だけは聞こえてきます。
ガタガタッ、ガタガタッ、バタッバタッ
音は大きくなり、ついには押し入れの扉が無理矢理開けられる音がしました。
何かが出てきた、押し入れから…
僕は恐怖心で混乱し、いっそうの事身体を揺さぶらせて逃げようと奮闘します。
が、無理なんです、どうしても体は動かないんです。
キ リ キ リ キ リ … キ リ キ リ キ リ
何か、形容しがたい音が…しました。
間違いなく押し入れの方向から…。
『 キリキリ 一つ 二つ 三つ 四つ 小指の味は いと美味し 小指の爪は いと美味し 』
不気味な歌。
不気味な声。
恐怖、…恐怖。
僕は絶叫しました、出ない声を振り絞って、空気が勢いよく喉を通り抜けて、それでひゅーひゅーと空気だけが通り抜けます。
唾も飛び散り、それは汗と涙に混じります。
『 キリキリ キリキリ ギリギリ ギリギリ ギギギギギギギギギ 』
そこで、僕の意識は途絶えました。
二日後、僕はアパート暮らしから友人の家に再びお世話になることになりました。
……両手両足には包帯を巻つけて。
何故か?
あの後、目覚めた僕が最初に見たのが血まみれの僕の両手両足だったからですよ。
僕のすべての小指の爪がはがされて…いたんですよ。
第一声は絶叫でしたよ、もちろん。
血まみれの手を振り上げて叫びましたよ。
激痛も同時に走って、振った手から鮮血が周囲に散りましたよ。
痛かったですよ、本当に、爪をはがれるんですからね。