高橋コウ(山梨県)の手記
◎タブーの山への挑戦
私の住んでいる山形県最上町は、宮城秋田両県の県境に近い場所で、奥羽山脈のほぼ真ん中に位置している海抜二,三百米の山里です。
見渡す限りの険しい山々と、深い渓谷に囲まれていて、すぐ近くには広い傾斜の続く高原が眺められます。
名だたる豪雪地としても有名ですが、陽春の候ともなりますと、どこを歩いてもぜんまい、わらび、山うどなどの山菜が豊富に採取されます。
私は山菜取りが好きで、人様から名人級などとおだてられるくらいに、質がよくて太いぜんまいやわらびを探すのが得意なのです。
長い間の経験と、好きな道だからこその工夫などが原因だと思います。
ところが、附近の連山をくまなく歩き回っていて山のベテランと自他共に許す私も、ある特定の区域だけは足を入れたことがないのです。
それは、山形宮城両県境にまたがる田代峠から、更に入った山奥の附近です。
地形がきわめて複雑なこと以外には何の変哲もなくて、深い谷が多く湿地が続いている山地ですが、地元の人々は古来から、この地域に行った者は再び戻ってこないとか、運よく帰れても発狂してしまったり、突発的事故死が起きると伝えられています。
地獄の山との別名もあって、山登りはもちろん、山菜取りの人も恐れて近寄らないくらいタブーの山でもあります。
太平洋戦争の末期に日本内地を移動中の旧海軍双発飛行機一機が、地元住民の誰もが視認している中で、田代峠奥地の上空で急に飛行中の機体が空中爆発して、墜落した事件がありました。
捜索に出向いた現職警察官と数名の消防団員達は、地元古老の制止を振り切って入山したまま、杳として消息を絶ち、更に救援に赴いた少数の海軍兵士さえ、行方不明になってしまいました。
数年前の冬です。
今度は陸上自衛隊のヘリコプター機が訓練飛行中に、田代峠奥地と推定される場所で危険緊急電報を打電したきりで、不明になったことがありました。
空中からの捜索は行われましたが、近代装備を誇る大勢の自衛隊員が来ましたのに、なぜか現場と覚しい所までは直行せずに、何も回収しないで帰ってしまったのです。
私ならずとも、そこに何かあるはずだと思います。
しかし、昭和五十年代のご時世に、迷信や非科学的な現象が存在するはずがありません。
ようし、誰もが嫌がって行かないなら、山男ではないが山女の名にかけて私が行ってやろう。
そして、どんな物があるのか、いかなることが起きるのかを、私自身のこの目で確かめてやりたいと決心しました。
五十歳をすぎた私には異常な決意だったのですが、独身で気楽な会社勤めの上の息子に相談しますと、
「お母さん、それだけは止めたほうがよいと思うよ。
何百年も人間が入っていない場所だから、ぜんまいのすごいのがあるだろう。
だが、禁制を破って入り、あとで気ちがいになったり、早死してはつまらないからなあ」
と、てんで乗ってこないのです。
そう言われるほど闘志が湧き上がる私は、
「おやっ、今どきの若い者にしては、珍しい縁起かつぎだわねえ。そんなら、私一人で這ってでも行って来ますよ」
そう宣言しますと、仕方なさそうに、
「しようがないなあ。それでは、田代峠の近くまでは車で案内するよ。だけど、近づいて眺めるだけ。
それ以上は山に入らない約束をすれば、一緒に行ってもよいよ」
しぶしぶの返事でした。
◎不思議な洞窟の老婆
息子は休暇をもらい、長年の教員生活から解放されて気楽な恩給暮らしの私との二人は、昨年五月十日の晴れた日に、宿願の田代峠に向かいました。
山と高原のだだっ広い私の町は、家から峠まで二十粁(キロメートル)以上もあるのです。
未舗装のでこぼこ道を車にゆられて行きますと、峠より相当離れている手前に、屋敷台と称する数軒の小落がありました。
車はそれ以上進めません。
駐車させてほしいと、一軒の家を訪れました。
わらぶきの屋根と手造りの荒い柱が目立っていて、電灯もありません。
黒ずんだランプが印象的で、現代では想像もつかないくらいに古風なたたずまいでした。
この辺では他家の人間と会うことが珍しいらしくて、底抜けの善意を示してくれましたが、田代峠から奥の山の地理を尋ねますと、上機嫌だったこの家の主は急に険しい顔つきになって、
「お前さん方よ。わしらのような山歩き商売の者でさえ、峠から向かい側には足を入れないのだ。
止めた方がよいと思う。
一歩でも踏み込むと、得体の知れないものがあって、必ず災難が振りかかってくる。
わしが知っているだけで、何人かが命を落とした。あそこだけは止めなさい」
こう言って、山菜取りには予備の食糧がいるだろうと、小動物のくん製肉をたくさん持たせてくれました。
峠まで歩きましたが、八粁足らずの道程だと思っていましたのに、背丈ほどもある熊笹をかき分けるのに手間どって、予想外に時間を費やしてしまい、日の長い五月の一日も暮れようとしていました。
山のベテランともなると、用意のテントも持参していますし、野宿は平ちゃらです。
さすがに人跡未踏のこのあたりでは見たこともない超良質のぜんまいがそこら中にあって、うなっていました。
今晩は泊まり、明日は一日中かけて山菜を集めれば、運び切れないほどのえらい数量のぜんまいを確保できそうだ。
二人で採れば六十キロは超すに違いない。乾燥しても六キロは出ると計算しました。
キロ当たり一万ですから、六万円以上になりそうだと、われながらみみっちい計算をしていました。
突然、私達の目の前に老婆が現れました。
初夏の日暮れの逆光線を浴びて音もなく姿を見せたとき、私と息子はぎょっとしたのです。
乱れた髪としわだらけの顔はよいとしても、ぼろ切れなのか南京袋をほごしたものなのか、衣裳めいたのを身にまとって、帯の代わりに蔦を使っています。
どうしてもこの世の人とは思えない形相でした。
地底から涌き出るような声をしぼって、何やら尋ねているのです。
私は山の衆と言われている独特の“またぎ”の言葉も知ってますが、それとも違うようでした。
判ずると、
『お前さん方はどこに行くつもりなのか。峠から向こうには行ってはいけない。
今晩はおそいから自分の住処に泊まっていけ』
そんな意味でした。
案内された住処というのは、山の中腹に掘った洞窟でした。家財道具らしいものは何もないのです。
洞窟内の地べたに炉を作っていて、
手製らしい土鍋の中には、とうもろこしと、何ともわからない肉片の塩じるでした。
鍋ごと食えとのことでしたが、盛り付ける茶碗や皿がなかったのです。
水のしずくがしたたり落ちがらんとした洞窟は、松やにの灯に黒ずんだ岩肌が不気味に光っていて、休むどころではありません。
老婆の姿をしげしげと眺める毎に、原始的な服装と動作のテンポが常人と違っていて、なぜこんな山奥に独りで生きているのか分からなくなってくるのでした。
言っていることは半分ほど理解されましたが、
「お前さん方は、翌朝になったら、峠から戻ってくれ。
一歩でも入ったら、どんな災難が降ってくるかも知れない。
うちの旦那は、あそこに出掛けたきり戻って来ないし、最近では、地図作りのお役人さんと営林署の人が、止めるのも聞かずに行って、次の日には死体となって烏や鷹の餌になってしまった。
悪いことは決して言わないから、必ず実行してくれや」
との意味でした。
予想通り、普通の人間が現場に近寄ると、なにかの理由によって不幸な事態になるらしいことは、彼女の言によっても了承できるのでした。
でも、その正体を突きとめたい気持ちも十分にありました。
◎空中に体が舞上って
次の日の朝早く帰る振りをして、お婆さんに謝して洞窟を出た二人は、少しばかり戻ってから、問題の場所を確かめようと話し合いました。
人工衛星のとび交うご時世に、婆さんの言うような馬鹿なことがあってたまるかいとの息子の提案に、好奇心きわめて旺盛な私が一も二もなく賛成したからです。
ひどい道中になりました。
ばら科の植物と強じんなつるの多い茎がからみ付き、足を取られ大変な難行軍になりました。
一歩一歩が汗だくになり、必死の歩行なのです。二粁ほども進んだと思います。
参ってしまうなあと奥山に進んだのを後悔し始めましたが、今更引き返すことはできません。
「お母さん、前の方が変な色に変わってきたよ」
息子はばらとの闘いの苦しい道程が終わりそうになった時、私に問いかけました。
私自身も先刻から、数百米ほども前方に淡い青のまじっている緑色のガスか霧に似たものが突然に発生して、次第に大きくなり、こちらの方角に進んでくる感じを気にしていたのです。
長い期間山歩きを過ごしてきた私には、このような色彩のガスを経験したこともありませんし、発生する場所と湧き上がり広がる工合も、常識では判断できない現象でした。
この時刻と現在の天候状態では、ガス、霧ともに湧くはずがないのです。
これが田代峠の奥に存在すると言われている不明の正体なのかと、さすがにぎょっとして足を停めようとしましたが、自分の意志とは正反対に、足の方で動きをとめてくれません。
私より数歩だけ前を進んでいた息子も同じ思いだったそうです。
ガスはますます濃くなって、私達の方に向かって輪を広げてきて、私達は見えない引力にずるずると引き込まれていくのでした。
前を歩いていた息子が、真青な顔を私に向けて叫びました。
「お母さん。これ」
山歩き用に使っていて、私が息子に持たせておいた大型の携帯用羅針盤を指差していました。
あとは恐怖で言葉が出ないらしいのです。
必ず北を示していなければならない指針が、無暗にぐるぐる回るだけで、不安定な針先はどこを差しているのか見当がつきません。
そんな信じられないことがと、羅針盤を水平に持ち直しても、同様に針は固定せずに大きく回ったり鋭く振れ動いて、決まった所を差さないのです。
不安定な振れがおさまると、前方の方角に固定してしてしまいました。
初夏の太陽の方向と言えば東か南です。磁石の北に向くべき針が東南に。
あり得べからざる事態に仰天してしまいました。
そして、指針に向かって私達の身体までが、吸い込まれるように動かされていることに気付きました。
あっと言う間に延びてきた緑の気体が、私達を包んだようでした。
くんくん鼻を鳴らして嗅いだ私は、ガスか煙霧に似たこと気体は酸素と窒素からなる空気でなくて、説明のしようもない別の成分の気体ではなかろうかと直感しました。
緑のガスを大きく吸い込みますと、すうーっと肺の中までしみる快いものを覚えました。
と同時に、急に身体が軽くなりました。
普通に歩いたつもりだったのですが、足を踏み出した瞬間に、ふあふあした自分の身体は二米も高くとび上がった感じで、そのまま十米ぐらい前方に音もなく降りる感じでした。
映画のスローモーションフィルムと同じような動作だと思い、突然に地球の引力がなくなってしまったのでは、いやあるにしても何分の一かに減ってしまっているのです。
私だけではありません。
突然の変化で、前を進む息子は恐怖におびえた顔を、間の抜けたスローモーション動作を示しながら振り返って見せているのです。
第二歩を空中に躍らせた時、高い空を見上げました。
空は青色に決まっていますし、数秒前には間違いなく青だったはずなのに、紫に変わっていました。
ただの紫ではありません。抜けるように濃くすき通って眺められる紫の色でした。
そんな馬鹿な話ってあるものですか、そう感じました。
次には、ふんわり降りる際に地上に目をやったのですが、たった今まで苦闘したばら科植物と蔦が消えていて、砂地になっているのです。
しかも、この地方で見る土砂でなくて、何時か九州の海岸に遊んだ時に手につかんだ砂に似ています。
まばゆく輝く水晶とも思われる石英がまじっているなあと思いました。
山の中に海浜の波打ち際に見られる砂があるとは、私は混乱してしまいました。
◎UFOの基地か?
もう一つの奇怪な現象に、はっとしました。
ガスを通して見える五百米ぐらいの先の小高い山の中腹が、がらん洞の洞窟らしい穴になっていて、その穴に向かって風が吹いているのです。
附近の気体の流れが、その穴に対して集中しているみたいでした。
つまり、直径一粁もありそうな得体の知れない砂地の真上を、穴を中心点とした場所へ、四方八方かたのかなり強い風が吹いているようだったのです。
木や葉は全く生えていません。
緑のガスが一面にただよっている外に、近づいて分ったのですが、小高い山と覚しい露出している山肌は緑色の泡で包まれていたのを発見しました。
しゃぼん玉遊びをするときや石鹸から出る泡と同じような泡ですが、なぜか緑色の小粒の泡です。
かなり強い風があるのに、地面に着いて離れないでいるのです。
どこから何のためにと、私の頭は狂いそうになってしまいました。
地球上の動植物で、こんな泡を出すものは聞いたことがありませんし、気象学の方面でも見聞きしていません。
大洞窟に近づいた私が、右手で地面に吸いついている泡を握った時に、納豆のような粘っこいものがからんで消えずに残り、手の平は真赤になりました。
緑から朱に変わったことと、熱い感じだったのを記憶しています。
この小区域だけは地球上にありながら、別の未知の天体のようになっているらしいことと、緑色に光っている泡自体が、確かに生きているのを確認したように思われたことです。
大洞窟に吸い込まれるように入った私達は、がらんどうではなくて、雑多なものが天井や岩肌にぺたぺたと張り付けられているのに気付き、何故か鉄片を吸いつける磁石のような働きをする、内部の岩壁に驚きました。
二十米もあろう高い天井に鈍く光る物体を見つけ、取ろうとしてジャンプしました。
ここは引力が極端に弱くなっているせいか、私でさえも楽にとび上がれるのです。
緩慢な動作でしたが身体がふあーっと空中に躍り、難なく届きました。
縦横十糎(センチ)のも足りない銅合金の板でしたが、手にして読むと、確かに『金星発動機五二型昭和十九年製三菱航空機株式会社』と刻み込まれていた記憶があります。
後になってから、旧海軍に在籍したことのある方に尋ねますと、中型の陸上攻撃機とか称する、飛行機用エンジンの名称板だと教えてくれました。
そうしますと、戦争中にこの附近で不明になった海軍機のものになります
でも、大きな図体のジュラルミンや鉄片と、人間の姿が見えなかったのは何故だろうかと疑えるのです。
地面に散らばっていたものも、銅製品であるまいかと思われる物体が多くありました。
鉄やアルミ合金などは溶けてしまい、銅だけが残されていた感じでした。
その外には、何百年か以前のものらしい百姓民具のうち、銅製品の鍋や萓合羽の支え具らしいのも散らばってました。
タイムマシンの世界に踏み込んだ思いで、私は息子へ目で合図して、いわくありげな洞窟から逃げようとしました。
口は利けなくなっていました。
強い風力に抵抗して脱出するのは相当の苦痛でした。
洞窟から出た途端に小高い山のいただきあたりから、白昼ですが写真のフラッシュよりも強烈な光線を浴びた感じでしたが、目がくらんで倒れたように思います。
これも後で聞いたのですが、息子は一遍は倒れたけれども再び起き上がって、夢遊病者のように前の道を歩いて帰ったようだった、と言っています。
そのへんははっきり分からないのですが、フラッシュに似た光は、白くはなくて緑色の光線だったと断言できるのです。
何時間過ぎたのか分かりませんでしたが、ふと目を覚ましますと、私と息子の二人は、前に申し上げました老婆の住む洞窟の前に倒れていたのです。
起き上がった私達はほら穴に入ってみますと、人影はおろか、確かにあった諸道具は何一つなく姿を消しているのです。
そして炉端だった土面から泡が涌き出ていました。
例の緑色に輝き光る泡が生きもののようにうごめいているのでした。
私達が四日間も家に戻らなくて大騒ぎになっていることも知りました。
それから、息子の方は二カ月ばかり安静してから、元の健康体に回復しましたが、私は現在でも近くの市にある精神科病院に通っています。
先生から、高空に長時間いたための症状に似ていると診断されましたが、誰も私の話を信用してくれません。
ですが、私だけではなしに息子も奇怪な体験をしているのです。
私達は信じられない現象を自分の目で確かめて、あそこの場所はいったいなんだろうかと考えましたが、地球以外の天体からやって来て、少なくとも何百年の間も、UFOなどの未確認物体を誘導する地球基地ではあるまいか。
洞窟に住んでいたお婆さんは、老婆に姿をやつした他天体からの派遣員だとも信じられるのです。
いくら考えても分からないのが緑色の泡でした。
地球人の私達には理解できなかったのですが、
自在に色彩を変化させ、超短波のような電波を発信して、通信の役目を果たしているとしか想像できません。
田代峠の山地に、複数の人間がこの目で確認しても、誰も本気にしてくれないことを情なく思います。