気分を害される可能性と、十数年前に実際にあったことを書いていますが、現状はこれと異なるであろうということを先に書いておきます。
「そんな事でいちいち驚いてたら、社会生活なんて送れないよ!」
教師の一人に、廊下で通り魔的に背後からカッターナイフで切りつけられたことを話した時の反応。
ちなみに、これは聞いて貰えただけ幸運だったと言える。
切られたのは制服だけだったとはいえ。
県内有数の不良校として知られる地元の中学校は、オカルトとは別の意味でホラーで、『荷物検査でタバコとバタフライナイフの押収が盛ん』という悪い冗談のような治安であり、絶滅の危機に瀕する一昔前の暴走族や不良が、時代に取り残されて跳梁跋扈する魔境であった。
当然、そんな長い黒歴史を持つ学校の卒業生達並びに保護者が品行方正であるはずもなく、親の借金、離婚やDV、アルコール中毒によってボロボロになった家庭の子供達がグレたり、倒れたり。その子供達が他の家庭の子供達を、そうされた子供が更に他の子供を、自分がされたように負の連鎖で続けていく。
遅刻早退率も高く、生徒が半数も出席していないことさえあった。
いわゆる学級崩壊。
授業中に卒業生がバイクで校内を駆けまわったり、体育館の窓が全て割られたり。お礼参りの盛んな校風である。
不良の間では猛者揃いと評価の高い学校であったが、進学や修学旅行の際には軒並み嫌厭され、地元でも在籍が分かると万引きを疑われるような痛い学校である。
万引き、恐喝、障害、飲酒、喫煙、妊娠、イジメ、転校、不登校、入院、停学や休学の話題は日常茶飯事であり、根性焼き、ファイブフィンガー(指の間をナイフでトントン)、爆竹の音や防火シャッターによる通行止めは毎週見かけるというレベル。
保健室や図書室、特別教室による問題生徒の隔離。
退学し少年院に送られた生徒もいるようだ。
そんな学校に配属されている教師が素晴らしいはずもなく、
『授業中にいびき立てて寝てる』『体罰を行う』など、決して理想ではないアクの強い社壊人ばかりだった。
繰り返しますが、中学の話です。
卒業生の大半からは黒歴史として公共の場で口に出すのを憚られる。
暴力と恐怖が支配する嘘のような中学校生活が青春であろうはずもなく、大半は矢面に立たないよう目立たないように、イジメを遠巻きに眺めながら隠れて生きるか、朱に染まってテストの点まで赤くなり、グレて不良を謳歌するか、という二択だった。
少数ながら、その空気に耐えられず転校や不登校になった者や、抵抗していた者もいる。
近隣に比べ高校進学率も低かった。
平成不況とはいえ、地元は特に店舗の閉店も多く、酷かった。
共に学ぶというより、緊急朝礼での服装検査や手荷物検査など、服役しているような気分を味わった。
義務教育だからって、そんな荒れた学校に通う義務はないと俺はいつも思っていた。
授業中にぼうっと放心状態になってしまったり、ストレスで下痢が続いて体育の時間はよく見学していた。
『アブナイヨ?』
小学生くらいのとても楽しそうな子供の声だったと思う。
ぼうっとしたまま掃除を終えて、教室に戻るところだった。
髪の毛に何かかすった。
ガシャン!
目の前に植木鉢が落ちてきて割れていた。
「あーっ!ハズレたあぁぁ惜しいぃぃぃ」
「ちゃんと当てろよー」
「あはははは、悪い悪い」
『危ないよ』は、窓の開いていてカーテンの揺れる四階から落とした子が言ったのか、空耳だったのか分からなかったが、俺は特に仲が良くも悪くもない違うクラスの子達に殺されかけたことにゾッとした。
腹立たしいという感情は湧いてこなかった。
冷静にあの子達も限界なんだなと思った。
だから誰でも良かったんだろう。
初めて存在を実感した”無差別の悪意”だった。
こんな事は何度もあった。
少しずつ感情や感覚が麻痺して、泣くことも無くなった。
不登校になった子の家にプリントを届けに行く度、何かあったの?と逆に心配されるほどだった。
不思議と涙は出なかった。
泣き虫で有名だったのに、いつからか「大丈夫、全然平気」と笑っていられるようになった。
目が笑ってないとね言われるのは多かったと思う。
後で知ったが、強い恐怖や緊張状態に耐えられないと、精神的に不安定になってヒステリック気味になり、本能的に他者を攻撃してストレスを軽減し、精神の平衡を保とうとするのだ。
もう、誰が悪いという話ではなく、みんな悪いとしか思えなかった。
たとえば、ある日先生にいきなり殴りかかった、普段はとても大人しい子。
「俺が何をした!」
「先生がなにもしないから!」
「なにがだ!一体何の話だ!」
「……」
激昂して殴り返す教師と、”何もしない大人”と”暴君となった子供”に虐げられ続ける生徒。
無表情に口を閉ざしたまま、以降は目も合わせようとしなかった。
彼はそのまま不登校になった。
全てに意味がなくなって、つまらなくなって、疲れたのだ、という。
今思えば、鬱そのものじゃないかと思う。
その表情はまるで、長年企業に勤め続けてくたびれた中年男性のようだった。
「みんな死ねばいいのに」
「ダメだよ」
「……裏切り者」
「ダ、え……うっ!?」
最後の罵る声だけは、子供の声だった気がする。
そのゾッとする声とともに、ぼうっとした状態から我に返ると、図書室で押し倒され、背後から首を絞められているところだった。
だが、ブツブツと上の空で俺の首を締めていたことに驚いたクラスメートが、いきなり手を離す。
「うっ!ぐ!おえっ!」
「みんなみんなみんなみんな……え?あれ?オレ……」
「何やってる!離れろ!」
正気に返ったクラスメートと共に特別指導室に連れて行かれ、先生を呼びに行った生徒が、俺を一方的に押し倒して首を締め始めたところを目撃していた。
その為、俺はお咎め無しだったが、なぜか喧嘩両成敗という扱いでそのこと自体はうやむやになった。
別に嫌われている相手でもなかったので、なんでこんなことになったのか心当たりはなかった。
『無差別の悪意』を除いて。
クラスメートからは土下座して謝られ、以降そんなことは一度もなかったが、さっきは急に『みんな死ねばいいのに』って気持ちになって、何もかも嫌になったと何度も話していた。
目が少し虚ろだなと思った。
虚ろって表現がしっくりくると思ったのは初めてだった。
卒業アルバムをまとめるアルバム委員というものがある。
この学校にも当然あった。
ことあるごとに生徒の写真を撮る。誕生月や、運動会、文化祭。
過去のアルバムとかを参考に撮った写真や作文を並べてページを作っていく。
不良な生徒や不登校な生徒は集合写真にいないため、個別に丸枠の中に埋まる。
平均して六、七人前後の丸枠を見付ける。
過去のアルバムを見ると、目が虚ろな生徒が沢山いた。
笑っているが、どれも不自然なほどの笑顔か無表情だった。
毎日生き抜くのに精一杯っていうような。
燃え尽きてしまいそうな笑顔と、無表情な疲れた顔。
大半の生徒に共通する、目の下にくっきり刻まれたクマ。
「写真選べた?みんなすーっごくいい笑顔ね!」
「……えっ?」
ガタン!!バタン!!
激しい扉の音が木霊する。
夜七時以降も残って作業しているのは、アルバム委員だけのはずだった。
「やだ、誰か居るのかしら。先生、ちょっとみんなで見てくるわ。扉閉めててね!」
優しい、いつでもポジティブでとても明るい先生だった。
イジメられている生徒に「明日も学校来てね!」と笑顔で言い放つような。
「これが……すごく『いい笑顔』?」
開いた何代も前の古いアルバムの写真は、どのアルバムも一見笑顔だが殆どみんな目が虚ろだった。
バターン!!ドタンバシン!!
激しく怒って誰かが扉を閉めるような音。
あるいは、怒りに任せて廊下を踏み鳴らすような音。
その後、不審人物がいる可能性もあるということで、アルバムを返却次第すぐに帰らされた。
写真は殆ど先生が選ぶことになった。
よく思い出せないが、先生の笑顔も必死で、時折目も虚ろだった気がする。
ぼうっとしていることも多かった。
先生が入れ替わることも多かった。
卒業式の最中に、目の前の生徒が突然暴れだした。
驚いて止めに入る新しく赴任した先生の目の前で、
「そんな事でいちいち驚いてたら、学校生活なんて送れないですよ?」
自然な笑顔だったと思う。
でも自分の口から出た言葉とは思えないほど冷たい発言だった。
自分もどこかおかしくなっていたんだと自覚した。
笑った。笑って、笑って、笑って、泣いた。ずっと泣いた。叫んだ。
アルバムは燃やした。
彼らも、もう人の親になる世代。
数年前に地元の友人と思い出に花を咲かせた際に読んだ、十数年後の母校のホームページに記された一文が非常に印象深かったので、ここに記録として残します。
(※現在は書かれていません)
『現在はだいぶ落ち着いたとはいえ、予断を許さない状況にあります』
当時は教師陣が学校の不祥事を『穏便に』という言葉でひた隠す姿勢を貫いていたこと。
イジメや万引きを下手に証言しようとすると、「嘘はいけないのよ?本当のことだけ言って」と都合よく繰り返し誘導される。
保護者は我が子がイジメられているという事さえ、記録に残されず。
書かなければ、何が起きても空白なのだ。
知らずに送り出し続けていたのだ。安心して。任せきって。
社会の闇を垣間見たのは、少し早い、中学の時でした。
本当に怖いこと。
忘れられないということ……